お江戸パラレル
五。
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新月の夜。
普段は焚かない篝火が燃える中。
逆に濃くなった影の中を音もたてずに、男が走る。
濃紺の上下に身を包み、首にだけ赤い布を巻いている。
鼠小僧。
ろくろく目撃者もいないのに、何時の間にかその名が定着していた盗人。
それは小僧程しかない小柄な姿にちなんでつけられたと言うが−…。
否。
走る影か小さな理由は、限界まで身を低くしているからだ。
そんなどうでもいいことを考えながら、影を探して屋敷内を走る。
一瞬だけ視界を掠めた盗人の姿が頭から離れない。
胸騒ぎが止まらなかった。
「さぁみんな、そろそろ時間だよ!頑張ってね!」
各々それぞれの分担場所で警備を続ける用心棒達に、山南が声をかける。
夕日は急ぎ足で西に沈んでいき、空が濃紺に染まってきた。
用心棒達は篝火の下で鼠小僧の出現を待っている。
普通の盗人ならば決して手を出そうなどとは思わないほどの警備。
内部に引き込み役が居るならばともかく、噂では鼠は一人働きだというし、そもそもコージ以
外の屋敷の人間は皆、赤玉屋の馴染みの者だ。
「―要するに、わしが一番怪しいっちゅーわけか」
「こちらが出迎えて雇い入れているのですから、疑ってなどいませんよ。鼠に関しては」
そう言いながらも、山崎は頻繁にコージのもとを訪れる。鼠に関すること以外で疑っているということだろうか。
ちなみにコージが担当する場所は勝手口、此処にきた初日にシンタロー達と会った場所である。
彼らは彼らで、屋敷の住人に追い払われながらも、そう遠くない場所
で鼠の逃げ道を張っているのだろう。
「あ、いたいた!山崎くーん!!」
「はい、どうかしましたか山南さん?」
「カンザシを探しているのだが」
屋敷の廊下から山南とカシタローが歩いてくる。
山崎がそれに歩み寄り、コージとは少し離れた場所で会話を始めた。
カンザシとは、トットリに頼もうとしていたものだろうか。
別の人間に頼んで造らせたにしてもやけに早い。あの時既に他の人間にも作らせていたのだろうか。
「今朝届けられたものだ。お前が受け取ったのだろう?」
「念のためだけど、アレも隠しておこうって話になってね」
「それならば此処にあります。山南さんに一度お見せしてから片付けようと…」
「あぁ、僕は昼間出掛けていたからねぇ」
…やはり、高価なものなのだろう。
山崎が取り出したものを見て、山南が歓声を上げている。
造ったのは何処の職人だろうか。
「では、これを締まってきます」
「待て、私も行く」
「どうしたんだい、カシタローくん?」
「念のためだ」
まるで山崎を疑っているような物言いである。
別段カシタローが山崎を嫌っているわけはないのだろうが、何処となく感じが悪い。
コージはあまり物事に頓着しないたちなのでそこまで気にしたことはないが、あれでは部下に嫌われるのではないか。
いや、現に嫌われている、というか、呆れ
られているようだったか。
「やれやれ、カシタローくんは心配性だなぁ。じゃぁコージ君、此処の警備よろしく頼んだよ」
言いながら山南が立ち去り、コージは勝手口に一人となった。
いずれまた山崎が戻ってくるだろう。
倉の方向は騒がしく、用心棒の斎藤と永倉の声が聞こえる。いつものように漫才でもしているのだろうか。
ともかく、他の場所にも警備は居るのだから、己の仕事はこの場から離れないことだ。そう考えて、木戸に寄り掛かり鼠を待つことにした。
そして、亥の刻。
山崎は一度顔を見せた後、また別の場所へ巡回に行き、コージは引き続き一人で警備に立っていた。
ぼんやりと時を告げる鐘を聞いていた時、ふと奇妙な気配を感じて刀に触れる。
−と同時に、にわかに敷地内が騒がしくなり、突如として倉が煙を吹いた!
「なっ…んじゃありゃぁ!」
白とも黒ともつかぬ斑な色をした煙は、倉の裏側から広がっているようだ。
根元が見えず、もくもくと広がるそれは、離れた場所にいるコージにもわかる不可思議な匂い
を放ち、何か特殊な薬をつかっていることが伺えた。
「何これ臭!染みる!」
「げっ!目にきっゲホッガッハ!!」
「ちょ、しっかりしてよハジメちゃん!!」
どうやら倉周辺の警備をしていた永倉と斎藤は煙をもろに吸ったらしい。
コージがその場に駆け付けた時には、既に山南やカシタロー、他の場所を警備していた者達も集まっており、辺りは混乱状態だった。
どうしたものかと、少し離れた場所から騒ぎを見ていたとき、篝火の影に人がいることに気が付く。
夜の、影のなかである。よほど目を凝らさなければ、そこに人が居ることに気付かない程だろう。
何故気付けたのだろうか。
背丈はコージよりはかなり低いが、小僧という程ではない。むしろ一般男子よりも少し高いくらいか。
気配はないが、何故かその雰囲気をよく知っている気がした。
どくり、と心臓がいやな音をたてる。
影は騒ぎを尻目に屋敷へと走りだし、コージは思わずその後を追い掛けた。
「ここいらに逃げたと思ったんじゃが…」
薄暗い部屋を見回すが、どの部屋も襖が閉まっていて中までは見えない。
数日暮してある程度慣れれば狭いものだとも感じられた屋敷だが、忍び込んだ盗人一人を探そうとなると、嫌気がさすほどに広く感じるもの。しかも相手は玄
人だ。
いやな予感とともに、冷たい汗が背中をつたう。
柄にもなく、コージは焦っていた。
ぼちぼち他の人間がやってきてもおかしくない。それまでに見つけなければならない。
…もし、鼠小僧の正体が、コージの考えた人間であるとすれば。
「どこにおるんじゃ…!!」
気ばかり焦る中、片っぱしから座敷への襖を開き、中を確認して歩く。
何部屋めかの座敷、必死で巡らせた視界の隅、障子の向こうで、影が動いた。
開けると、視界の先を黒い人影が遠ざかっていくところであった。
「くそっ!」
音も気配もさせない盗人を追い、コージはある部屋へと飛び込んだ。
そこは山並みの私室であった。
コージは入ったことはなかったが、一風変わった趣味の掛け軸や屏風などでそれと分かる。
コージの追っていた盗人は、今は追手など無視して部屋をあさっていた。
棚の引出という引出が開けられ、見ただけで高価なものだと判断できる物が無造作に散らばっている。
「…何しちょるんじゃ、トットリ」
「…………」
こちらの言葉を無視して、気のいい隣人であるはずの飾職人は部屋を物色し続ける。
疑問、焦り、驚愕。様々な感情が靄のように頭にかかり、次の瞬間、思わず叫んでいた。
「答えんかっ!!!」
「……家捜し、だっちゃ」
「っ!!!」
ひとしきり探し終えたのか、手を休め、真っすぐに目を合わせながら淡々と言った言葉に、カッとなる。
刀に手が伸びた瞬間、目の前にいたはずのトットリが視界から消え、首筋に鋭い刃物が当たっていた。
「でかい声出さんでごせ」
耳元で囁かれる感情のこもっていない声で、今己の命を握っているのがトットリであると認識させられる。
その緊張もさることながら、いくら頭に血が上っていたとはいえ、あの飾職人が己を簡単に追い詰めるほどのてだれだと、今まで気づかなかった…いや、気づか
せなかったことに愕然とした。
武士ではないだろう。きっと冷静に刀で戦えば打ち取れる。体格からして、力も自分の方が強いに違いない。
だが、この体制では手も足も出ないのは明白だ。
動きや構え、気配が、ただものでないことを物語っている。
そういえば、隣人は滅多に物音をたてなかった。
薄い部屋を通して隣にいるのかもわからず、部屋の前で声をかけられて初めて気付くのだ。
まるで、芝居に登場する忍者のように。
ごくり、と、知らずに唾を飲む。
それが合図であったかのように、トットリは再度口を開いた。
「な、カンザシ、どこに仕舞っちょーか知らん?」
「…なんじゃと?」
低く押し殺した声が紡ぐ思いもよらぬ言葉に、頭が追い付かない。
いくら飾職人であるとはいえ、赤玉屋のような店に入ってまで探すものがカンザシであるなどと。
疑問をどう受け取ったのか、トットリは再度言葉を口にする。
「カ・ン・ザ・シ。この店の店主と番頭が、特注で作らせとった筈なんじゃ」
特注のカンザシ。どうかんがえても御禁制の品である。
制作するのを辞しておきながら何故探すのか。
理解はできないが、そのカンザシならば。
「わしゃぁ、何所にあるかは知らん。確か山崎が番頭と一緒に…」
「しまうふりをして、ここに持ってきてますよ」
思いもよらぬ声と言葉に、びくりと体を震わせる。
視線を回せばいつの間にか、襖の前に、奉公人頭の山崎が立っていた。
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